「第(59)年連邦記念日」
2006年2月12日はミャンマーの第(59)年連邦記念日でした。
連邦記念日の記念会としてミャンマー政府上級の方々が国家連邦広場でカチン、カヤー、チン、モン、ラカイン(ヤカイン)、シャン、カリンの民族代表者達と夜の晩餐会でお食事します。
「ミャンマー連邦記念日の歴史」
大昔から ミャンマーは 自立の国でした。ミャンマー国の中に主として8種類の民族が住んでいました。
民族の名前は(1)ビルマ族、(2)カチン族、(3)カヤー族、(4)チン族、(5)モン族、(6)ラカイン(ヤカイン族)、(7)シャン族、(8)カヤィン族です。
8民族は 農業を 主の仕事として、民族同士でお互い見守りながら農業国家を築きました。
しかし、何時までも平和で居られない地球場で、ヨーロッパでは植民地主義で国と国は 競争し、戦争になり、ミャンマーの国は英国の三回目の侵入戦に耐えられず、ミャンマー国王が住む、ミャンマー中部地方にあるマンダレー城が1885年に落ちました。
それから、ミャンマーは60年以上もイギリスの植民地になりました。
ミャンマー各地でイギリス政府に革命を起こしました。
有名な革命の名を紹介しますと、1906年に (Y.M.C.A)the Young Men`s Buddhist Association仏教青年会を初めて作りました。仏教青年会の活動は長い間戦いの気持ちに冷めてしまった仏教等の民族達の目が覚めるように文学を書いたり、人々を集めてイギリス政府に対して革命活動をしました。
1919年に (G.C.B.A)the General Council of Burmese Associationsビルマ民族会を大きく作りました。イギリス政府に革命を広く行いました。
1920年に ヤンゴン大学で、イギリス政府が作った法律に対して反対し、大学生の デモーが起きました。その事件に対して全国の主民に広がりデモに参加しました。その日を 国民記念日として認めました。
当時、イギリス政府はミャンマーをインドの一部の地方として纏める積もりでした。ミャンマー人達の思いにより大反対しましたのでイギリス政府もインドに入れる事を止めました。
1930年にまた、イギリス政府の管理に耐えられなくなり農民達はセヤーサンを代表にしてイギリス政府に戦いを始めました。
この様にして、ミャンマー民族は独立に向けてイギリス政府に様々な手段を使い戦いを 挑みました。
しかし、イギリス政府から独立が貰えず負け戦に行く様な多くの民族に無だ血を流すだけであった。
その件に築ずいた主君アウンサン(将軍アウンサン)はミャンマーを守れる軍隊を作るため海外へ行きました。
主君アウンサンを代表する33人の戦士達は日本で戦いの戦術を学びました。ミャンマーへ帰って来た時に(B.I.A) the Burma Independence Armyビルマ独立軍隊を作り始めました。
それから将軍アウンサンを代表としてビルマ独立軍隊と日本軍の力を合わせてミャンマー国内からイギリスを追い払いました。
しかし、日本側はミャンマーに偽物の独立を与えて、ファシスト主義でミャンマーを制圧しました。
将軍アウンサンの思いは1年内でイギリス政府からミャンマーを独立上げさせるため、英国へ行きました。
それからイギリス政府から約束条約「アウンサンエテリー条約」を結びました。
ミャンマー全民族を独立するために将軍アウンサンと色々な民族の代表者達は1947年2月12日、午前10時に南シャン州、ピンロン町でピンロン国家会議を開きました。
「ピンロン条約」に民族の代表者方々が同じ思いでサインしました。
(当時、イギリスの植民地でしたころイギリス政府はミャンマーの国を上地部、中地部、下地部三部に分けて制圧しました。)
当時、「ピンロン条約」に参加した人数は将軍アウンサンを代表して23人参加しました。
その忘れられない日をミャンマー連邦記念日と言います。 |

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